朝鮮三国の仏教美術vol.13

朝鮮三国へ伝わった仏教

朝鮮半島で興った最初の国家の時期は明確にされていませんが、おおよそ、紀元前8世紀頃から次第に部族国家が形成されていったと推測されています。紀元前2世紀末には漢(中国)の武帝が朝鮮に侵攻し、以降朝鮮は約400年に渡って中国に支配されていました。

4世紀初頭、高句麗が中国勢力を一掃し、南方では三韓(※1)の馬韓から興った百済と、辰韓から興った新羅が勢いを増し、高句麗、百済、新羅の朝鮮三国時代が到来しました。

朝鮮三国時代は朝鮮諸族の自主的な発展の時代であり、朝鮮三国は中国と倭(日本)の圧力に対抗しながら、政権の維持に努めました。一方で、三国は進んだ大陸の文化を積極的に受け入れ、4世紀~5世紀に三国へ伝えられた仏教は、朝鮮の思想と文化に影響を与えました。

歴史書に記載によると仏教が伝わったのは、三国の内、高句麗が最も早く、小獣林王(そすりむわん ※2)の2年(372年)に五胡十六国中の前秦から、次いで、百済へは枕流王(ちむにゅわん)の元年(384年)に東晋(とうしん)から、新羅へはやや遅れて訥祇王(ぬるちわん)の時代(417~458年)に高句麗から伝えられたと記されています(公認は528年)。


※ 1)三韓(さんかん)
1世紀~5世紀に朝鮮半島南部に存在した集団とその地域。朝鮮半島南部に居住していた人々を韓と言い、言語や風俗がそれぞれに特徴の異なる「馬韓」「弁韓」「辰韓」の3つに分かれていたことから「三韓」と呼ばれています。

※ 2)小獣林王(そすりむわん)
高句麗の第17代王。在位371‐384年。



朝鮮仏教美術の黎明期

高句麗は当初、北方の集安(ちばん 輯安=現中国集安市)に都を定めましたが、広開土王(くわんげとわん ※3)を継いだ長寿王(ちゃんすわん ※4)が427年に平壌(ぴょんやん)に遷都しました。現在のところ集安では寺院址(じいんし ※5)は発見されていませんが、平壌には清岩里(ちょんあむり)廃寺(金剛寺址(くむがんさ))や定陵寺(ちょんるんさ)址の他、5世紀後半以降のものであると推測されている複数の遺跡があります。

仏塔とみられる八角の建物三方(北・東・西)を、金堂とみられる3つの建物が取り囲んでいる一塔三金堂式伽藍配置が特徴的です。塔は四角であるものの、同じような例が日本初の仏教寺院である「飛鳥寺(現・安居院(あんごいん))」にも見られます。


※ 3)広開土王(くわんげとわん)
高句麗の第19代王。在位391~412年。 

※ 4)長寿王(ちゃんすわん)
高句麗の第20代王。在位413年~491年。

※ 5)寺院址(じいんし)
寺院の堂塔などが廃滅した跡。



朝鮮の仏像彫刻

朝鮮における仏像彫刻では、4~5世紀に遡る確実な作品は知られておらず、現存する最古の在銘遺品は6世紀の小金銅仏(しょうこんどうぶつ)で、慶尚南道宜寧郡大義面(きょんさんなむどうぃりょんぐんてういみょん)で発見された金銅如来立像(こんどうにょらいりゅうぞう 539年)や、黄海道蓬山里(ふぁんへどりょんさんり 現・黄海北道龍山里(ふぁんへぶくとりょんさんり))出土と伝わる、一光三尊(いっこうさんぞん)形式の金銅無量寿像(こんどうむりょうじゅぞう 571年)などがあります。

各像とも顔の容貌が長く、かすかに微笑み、痩身の体軀に厚手の衣をまとっています。その様式は6世紀初頭の中国北魏物の系統を引くものであると推測されています。



↓高句麗銘 金銅如来三尊佛


仏像美術

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