朝鮮三国時代の弥勒(みろく)信仰
三国時代の仏像彫刻は、菩薩の半跏思惟像(はんかしゆいぞう)が数多くつくられました。特に百済と新羅において多くの作例が残っています。
半跏(はんか)とは片足をもうひとつの足の上に組んで座ることで、椅子に腰をかけ、上体を前にかがめ、右手の指先を軽く頬に触れるようにして思索する様を表現していることから、「半跏思惟像」と称されています。
その特徴的なポーズは「悟りを開く前の釈迦の姿」、もしくは「兜率天(とそつてん ※1)上の弥勒菩薩の姿」に由来していますが、朝鮮三国時代には特に弥勒信仰が盛んでした。
弥勒菩薩は釈迦入滅(にゅうめつ ※2)後、五十六億七千万年を経て、地上に生まれ下り(弥勒下生)、人々を救うとされますが、生まれ下りるまでは天上界にあって、救済する方法を考えているといわれています。人々は救済者としての弥勒を待ち望み、その思いを仏像にゆだねました。
朝鮮三国時代に多くの半跏像がつくられた理由は分かっていませんが、その理由を新羅の「花郎(ふぁらん)※3」と、これを中心とした青年貴族集団の熱狂的な弥勒信仰であると考える説もあります。
※1)兜率天(とそつてん)
仏教の宇宙観にある天上界の一つ
※2)入滅(にゅうめつ)
釈迦の死や高僧の死などに使う言葉で涅槃に入ることを意味する
※3)花郎(ふぁらん)
「美貌の青年の意」を意味し、弥勒の生まれかわりとされた
日本と朝鮮の半跏思惟像
朝鮮における半跏思惟像の造像は6世紀後半に遡ります。現存している初期の作例はどれも小さなものですが、6世紀末頃になると、宝塔(ほうとう)をあしらった、あかぬけた宝冠(ほうかん-仏像のかんむり)の「旧総督府博物館の金銅像(韓国・国立中央博物館)」のような、大型の像がつくられるようになりました。
一方、7世紀前半に制作されたと考えられている「旧徳寿宮の金銅像」は、古代朝鮮における仏像の最高傑作のひとつとされています。興味深いことに、日本の広隆寺(京都)の木造弥勒半跏像と瓜二つの像としても知られています。
朝鮮のものは銅像、日本のものは木造と素材は違いますが、共に印象的な三山冠(さんざんかん)をいただき、面長の顔立ちに半月形の眉、切れ長の眼のほか、体つきや坐法、裳の形式まで、その表現が酷似しています。
旧徳寿宮像が出土した地として、百済と新羅の二つの説があり、広隆寺像も朝鮮製と日本製の二説があり、どちらも定説を裏付けるほどの資料は残っていません。
それでも、二つの半跏思惟像は千年以上前に、古代朝鮮と日本文化交流があったことを伝えています。
↓弥勒菩薩半跏像 広隆寺
仏像の坐法
●結跏趺坐(けっかふざ)
両脚を座禅のように組む
●半跏不坐(はんかふざ)半跏踏下げ
椅子に腰かけて右脚を上げて組み、左脚を踏み下げる
●倚坐(いざ)
椅子に腰かけて両足をまっすぐ下す
●後脚倚坐
椅子に腰かけ下した脚をX状に交差する
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