戦乱と宋王朝の統一
唐が滅び(907年)、中国全土で小国が乱立するようになった時代、北方では5つの王朝が次々と交代し、南方では10の国が興り、覇権を奪い合うようになりました。この乱世は五代十国時代と呼ばれ、政治的には不安定な時代でしたが、中央文化が各地方に普及していきました。比較的落ち着いていた長江流域の南方諸地域を中心として、急速に文化が発展した時代でもあります。
五代十国の混乱は宋王朝が統一を果たし、各地で栄えていた文化も統一されてきました。この時は、個人的、趣味的な性格が強い文化が広まっており、秘術作品が主流で、書画、陶磁器なども個人の愛玩として制作されました。このような風潮や考えは仏教にも影響し、個々の内面を深く追求する「禅宗」が新たな主流となりつつありました。
禅宗が従来の仏教と異なる点は、礼拝像をあまり重視しなかったところです。宋代の初期には大規模な寺院の修復、長江流域を中心として大規模な石窟造営なども行われましたが、彫刻作品においては名品は少なくなり、形式化した造像が目立ちます。
なまなましい写実表現 宋代の仏像
宋の時代の仏像彫刻は体の線に微妙な強弱が無く、変化に乏しく単調な肉付きです。また、顔の表現は生身の人間に近くなり、一般的によく知られた風合いが強いものとなりました。
この時期の造像の主流は、修行者の姿をきめ細やかに表現した羅漢像(らかんぞう)や、女性的ななまめかしさをもった観音像など、リアルな人間の姿に似た写実的な彫刻でした。
前時代まで制作されていた理想的な人体美はなく、宋代の時代の彫刻は、リアリズムを追求した人体そのものが表現されていました。
このような俗化は宋代以降にも継承され、続く「元」「明」「清」でも、宋より前のように、人からかけ離れた気高く偉大な仏像はつくられませんでした。
日本にも影響を与えた宗代の仏像
宋の時代のリアルさを求めた仏像様式は、日本に禅宗が入ってきた際に共に伝来しました。鎌倉時代の木彫像などには人体の再現や、極端な写実、派手で繊細な衣文の表現など、宋様式を模倣されたと推測されている仏像があります。また、「入宋三度」と自称する東大寺の僧・重源(ちょうげん)に私淑(ししゅく)した仏師・快慶(かいけい)は、宋時代の美術様式に強く影響を受けていたことが知られています。
↓観音菩薩倚像 北宋
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