日本へ渡った仏像
古代東アジアの世界の最先進国は中国でした。日本の仏像も長い間中国美術の影響を受けてつくられてきました。しかし、本家の中国仏像は仏教に否定的な皇帝の廃仏やあいつぐ動乱の際に多くが失われてしまいました。一方、海を渡った日本には、古い時代に中国などからもたらされた仏像や経典などの請来物(しょうらいぶつ)が一部残されており、華やかだったころの中国美術の精華を現在に伝えています。
白檀(びゃくだん)製の観音
「九面観音(くめんかんのん)」の名で知られている法隆寺の観音菩薩像は、盛唐期の優れた逸品です。香り高い白檀(※1)で製作された仏像で、頭上から台座までを材から彫り出されています。とくに、装身具や天衣が身体から離れているにもかかわらず、継ぎ目なく刻みだす卓越した彫刻技法の素晴らしさには目を見張るものがあります。
このように、白檀や栴檀(せんだん ※2)などの香木でつくられた仏像は「檀像(だんぞう)」と呼ばれ、インドで始まり、中国でも大変珍重されました。天平19(747)年の法隆寺の財産目録(資材帳)には、養老3(719)年に唐から伝えられた「檀像一具」の存在が記載されています。檀像の請来は日本の木彫仏成立の要因の一つとされ、日本でもひのきなどの代用材を用いた檀像風の無彩色の仏像が造られました。
※ 1)白檀(びゃくだん)
ビャクダン科の半寄生の熱帯性常緑樹。原産地はインド。
※ 2)栴檀(せんだん)
センダン科センダン属に分類される落葉高木の1種。ヒマラヤ、中国、台湾、朝鮮半島南部、日本の熱帯・亜熱帯域に自生。
三国(インド、中国、日本)伝来の釈迦如来像
京都・清凉寺(せいりょうじ)の釈迦如来像は、宋の時代の中国に行った東大寺の僧・奝然(ちょうねん)が、現地の職人にインド伝来の瑞像(ずいぞう)・優塡王思想慕像(うでんのうしぼぞう(※3)を模刻させ、雍熙(ようき)2年(985年)に日本へ持ち帰ったものです。そういった由来からインド、中国、日本の三国伝来の釈迦と称されています。頭髪や着衣、光背(こうはい)などの形式が独特であり、中国産の魏氏桜桃(ぎしおうとう ※4)という素材も珍しいものです。
「増一阿含経(ぞういちあごんきょう)- 仏教の漢訳・阿含経の1つ」によると、釈尊はすでに昇天していた生母・摩耶のために㣼利天(とうりてん -天界のひとつ)におもむき、3カ月間説法をしたが、地上にいた、憍賞弥国(きょうしょうみこく)の優塡王(うでんのう)は行方知れずの釈尊を恋しく思うあまりに病気になってしまいました。家臣らは牛頭栴檀(ごずせんだん - 牛頭山に産するといわれる最高級の檀木)で、五尺(約1m50cm)の釈迦像を造り、王を慰めたという話が伝わっています。
仏像製作の始まりは、釈迦人滅後数百年も後のことですので、この言い伝えは史実ではないと考えられていますが、インドや中国では広く知れ渡り、これにより優塡王思慕像と呼ばれる釈迦像が造られました。
清凉寺像のモデルとなった瑞像は残念ながら現存しませんが、こうした仏像の一つであったと考えられています。
※ 3)優塡王思想慕像(うでんのうしぼぞう)
釈尊(釈迦)在世中にインドの優填王(ウダヤナ Udayana)がつくらせたという最初の仏像。
※ 4)魏氏桜桃(ぎしおうとう)
バラ科の落葉樹。仏像制作などに用いられた。
↓ 観音菩薩立像
0コメント