武周革命
683年に三代皇帝・高宗(こうそう)が没すると、皇后の武氏(ぶし)が権力をにりぎ、みずからが即位して国号を周(690~705年)に改めました。武周革命と呼ばれるこの出来事で、中国史上唯一の女帝、武則天(則天武后)が帝位につきました。その後のクーデターにより唐朝は再興されましたが、混乱が続いた後、六代・玄宗(げんそう - 在位712~756年)の即位によって、唐は再び平安の時代となりました。
玄宗の政治
玄宗の治世は巧みで優れ、「開元の治(かいげんのち)(※1)」として後世の模範とされました。玄宗は音楽や詩文など、芸術的な才能も豊かであり、玄宗の宮廷はこれまでにないほどの華やかさと文化で咲き乱れました。
ところが晩年は「楊貴妃(ようきひ)」との事情におぼれ、国を混乱を招き、唐王朝は衰退の一途をたどりました。それでも玄宗の治世に栄えた時代は、中国史上、最も華やかな時代であり、「盛唐時代」と称されています。
唐の宮廷の初期は道教が重んじられていましたが、則天武后が仏教を保護したため、全国的に寺や仏像の製造が盛んでした。寺院数が増えると僧の数も急速に増加し、寺院は諸家から物品や金銭などの莫大な寄付を受け、玄宗が即位する時代には、諸寺の荘厳(しょうごん)は宮廷をしのぐほど華やかさであったといわれています。現存する中国の仏像がこれを裏付けており、盛唐の遺品は圧倒的な数が残されています。
※ 1)開元の治
712年、唐の玄宗時代の前半・開元(713~741年)年間の政治は「武韋の禍」の混乱を収束し、開元律令の制定などが行われ、律令制度を基として民政安定策などが科挙出身の有能な官吏によって推進されました。唐王朝でも7世紀前半の貞観の治と並んで、政治の安定した時代とされます。
盛唐彫刻
盛唐と呼ばれる時代の作品は、初唐期にめばえた写実的な人体表現が完成した時代とも言え、さらに人体の動きや表情など、新しい表現が追い求められています。また着衣のシワの表現や文様に加えられる装飾なども発展し、大変優美で華麗な作品が多数つくられています。
盛唐後期には、完成された表現は固定化されており、前代にみられた発展へのエネルギーが徐々に失われていった様子がうかがえます。盛唐期以降には彫刻作品の多くが過去の作品を模した型にはまったものばかりで、面白みのないものとなっていきました。
唐王朝はこの時代、政治的、そして文化的に東アジア一の国とも言え、朝鮮の新羅や日本などの諸国から多くの遣使や留学生が集まり、唐の進んだ文化を自国へ持ち帰りました。
遣唐使により唐から日本へ持ち込まれた芸術様式の精華、数々の天平彫刻の名品達は、現在も奈良の薬師寺や東大寺などで鑑賞できます。
↓ 敦煌莫高窟
0コメント