南北朝~随時代の仏像美術vol.8

北魏の分裂・隋の統一へ

534年、北魏は東魏と西魏に分裂しました。北魏の急激な漢化政策が民衆の反感を招き、きらびやかで美しい北魏の仏教文化は終わりました。後に北魏は北斉に、西魏は北周に覇権を奪われ、577年に北周は北斉を滅ぼしました。
北周の武人、楊堅(ようけん:後の隋の文帝)は、北周の皇帝から位を譲り受けて隋を建国し、589年に南朝の陳を滅ぼして中国の統一を果たしました。

北周の武帝は華北を統一する際に富国強兵を行いましたが、従来のように寺僧を擁護せず、還俗層(げんぞくそう ※1)の衛元嵩(えいげんすう:人名)の上書(じょうしょ ※2)を受け入れて、仏教弾圧(廃仏)を行いました。多くの寺院が廃絶を余儀なくされ、仏像もその多くが失われてしまいました。

※1)還俗層(げんぞくそう)
 僧侶になった者が戒律を堅持する僧侶であることを捨て、在俗者(俗人)に戻ること

※2)上書(じょうしょ)
 目上の人または官庁などに意見書をさし出すこと。


武帝が廃仏を行った後、隋の文帝は新しい施策のよりどころとして、「無差別絶対平等の仏教」を取り入れて復興を進めました。隋王朝は政治的統一を急いだものの、すぐに自滅への道をたどりいましたが、続く唐への準備期間としては、政治史上、また文化史上においても大きい意味を持っていました。



丸みのある仏像への変化

東西の魏の仏像は、前代の強く正しいと評される作風ではなく、優しくおだやかな雰囲気を持つ仏像があらわれ、北斉・北周でその傾向はさらに強くなりました。

天統年間(565~569年)前後につくられた北斉の造像様式は、丸みをおびた身体や面相、薄い衣、簡略化された衣文を持っています。北斉を代表する河北省・響堂山石窟(きょうどうざんせっくつ)の仏像には、体つきや装飾に西方的な特徴が多くみられ、造像様式の新しい時代を感じさせています。

一方で、双釈迦・双観音と呼ばれる二尊像の組み合わせがあらわれ、造像のテーマも新しい要素が加わり、白玉製の仏像が流行ったのも北斉時代の特徴です。

現存している北周の作品は北斉ほど多くはありませんが、天和年間(566~572年)頃には北斉と同じように、全体に丸みがかった柔らかい仏像がつくられました

続く隋の仏像には様式的に前代の特徴を引き継いでいるものが多く残っていますが、隋の後半期には腰をひねった仏像など、姿勢にも柔軟性があり、着衣や装飾表現にも前代には見られない豊かな様式が多数見られます。より写実的な唐代の彫刻への過渡的な作風を感じることができます。


↓観音菩薩立像 隋(585年)重文

仏像美術

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