龍門石窟 ~漢民族文化へのあこがれ
漢民族文化に憧れをもっていた北魏の第6代皇帝・孝文帝(こうぶんてい)は漢化政策を推進し、北方の平城を離れ、494年に中原の『洛陽』に都を移しました。洛陽は「後漢」と「三国の魏」以来の古都であり、当時の様子を伝える『洛陽伽藍記(らくようがらんき)』(楊衒之(ようげんし:人名))によると、碁盤の目のように整然と区画された条坊をそなえ、大小1300余りの寺院が立ち並んでいたと言われています。
遷都の翌年に『龍門石窟』の造営が開始されました。龍門石窟は洛陽の南12kmの岩山に彫られた大石窟で、黄河支流の伊水をはさんで東山(とうざん)と西山(せいざん)があり、対峙するさまが門闕(もんけつ:宮城などの門)のように見えることから、古くは『伊闕石窟寺(いけつせっくつでら)』と呼ばれていました。
北宋時代まで造営が続き、総窟龕数(そうくつがんすう)は2000余り、掘り出された仏像の数は10万体以上という壮大なものとなりました。
龍門最古の窟、西山の南に位置する『古陽洞(こようどう)』は、元々天然の洞窟を利用し、3回に分けて造営されたと考えられています。窟中には多くの刻銘が残っていますが、龍門洞窟内に刻まれた造像記の内、特に優れているとされる20点は『龍門ニ十品(りゅうもんにじっぽん)』と呼ばれ、書家や書道愛好家に珍重されています。
龍門石窟 賓陽中洞
魏書『釈老志(しゃくろうし)』によると、500年、第七代宣武帝は平城の霊岩寺(雲崗屈折)にならい、洛陽の伊闕(いけつ:龍門)に亡父母(孝文帝と文昭皇太后)のために、一つずつの石窟を開くように命じました。さらに508~512年には自らのために石窟を開きました。これら3つの石窟は賓陽三洞(ひんようさんどう)と呼ばれています。
3つが並ぶ北洞、中洞、南洞の内、宣武帝自身のための賓陽中洞は、天井と床面いっぱいに蓮華の彫刻をほどこした華麗な装飾があり、517年ごろに完成したと推定されています。
この窟の正面奥壁には本尊如来坐像(ほんぞんにょらいざぞう)を中心に、左右に僧形(そうぎょう)像と菩薩像が各一体ずつ掘り出されています。中尊の如来坐像は、龍門の北魏後期様式を代表する作品として有名です。面長の顔、見開いた(眼杏仁(きょうにん)形)、やや微笑んで見える唇の両端をやや引き上げた口元(※2)。衣は雲崗初期の作例より少し厚めで、からだつきから裳懸座(もかけざ)までの全体、ほぼシンメトリーにつくられています。この様式は南朝の漢民族にならったものとされ、北魏宮廷の漢化の跡とみることができます。
※2)やや微笑んで見える唇の両端をやや引き上げた口元
アルカイック・スマイル = 古拙(こせつ)の微笑
↓龍門石窟 賓陽中洞
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