雲崗石窟~大規模な造像事業 仏像美術vol.6

南北朝時代の雲崗石窟

五胡十六国の動乱の中から成立した鮮卑族(せんぴぞく:拓跋氏-たくばつし)の北魏王朝は四世紀後半、平城(現在の山西省大同市)に都を定めて周辺討伐を開始し、439年に華北を統一しました。同じころ、中国の江南地方では漢民族の宋(そう:劉宋-りゅうそう)王朝が成立し、南北朝時代が始まりました。

この時期中国では既に仏教が浸透しており、五胡十六国の異民族も華北各地で信仰していました。さらに勢力を拡大していた北魏が周辺諸地域を征服するに従い、北魏内でも仏教が盛んになっていきました。五胡各国では国王が仏教信者となり、国家統一に仏教信仰を利用することが多く、北魏では皇帝が「生き仏」として奉られましたが、これは北魏独自のものであり、南朝には国家権力と結びついた仏教はありませんでした。


雲崗石窟(うんこうせっくつ)

460年、北魏の沙門統(しゃもんとう:宗教長官)であった曇曜(どんよう)は、平城の西の武州塞(ぶしゅうさい)に、北魏の五人の先代皇帝(※1)を記念した石窟を造る提案をしました。武州塞は都に近い軍事基地として北魏の河北統一に大きな意味をもつ要衝であり、北魏という国家、そして皇帝の権力を誇示するには最適の場所でした。この計画は時の皇帝、文成帝(ぶんせいてい)により許可され、国家事業として実行されました。

※1)北魏の五人の先代皇帝
 『1』太祖道武帝(拓跋珪 在位:386年〈代王〉/ 386~398年〈魏王〉/ 398年~409年〈皇帝〉)

 『2』太宗明元帝(拓跋嗣 在位:409年~423年)
 『3』世祖太武帝(拓跋燾 在位:423年~452年)
 『4』南安隠王(拓跋余 在位:452年)
 『5』高宗文成帝(拓跋濬 在位:452年~465年)

    北魏宗室の姓は「拓跋」でしたが、孝文帝の漢化政策により
    漢風の姓「元」に改められました。

↓雲崗石窟は東西1kmにわたる石窟寺院で、中華人民共和国山西省大同市の西方20kmにあります。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されています。


雲崗石窟は武州北岸の岩山に彫られた、東西1kmにおよぶ大石窟群です。
40窟の石窟(小さなものも合わせると100窟を超える)があり、曇曜(どんよう)が最初に開いた窟は、第16~20窟までの5つで「曇曜五窟(どんようごくつ)」と呼ばれています。
雲崗石窟には高さ10mに近い大仏像もおさめられており、それらの仏像はどれも重厚感のある体格・堂々とした体つきと、幾何学的な強い衣文(えもん)線があります。張りの顔つきや薄手の衣にたくましい身体表現は、雲崗石窟の仏像の特徴です。

雲崗石窟の開窟は494年の洛陽遷都によって龍門石窟が開かれるまで続きました。曇曜五窟などに見られる北魏前半のこのような造像様式は「雲崗様式」と呼ばれています。

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