南北朝時代の始まり
五胡十六国時代、4~5世紀初めの華北一帯では、北方異民族による王朝が乱立していました。漢民族の晋は一度は中国全土を統一しましたが、北方異民族におされて中国の南半分を支配するにとどまっていました(東晋)。
420年、江南地方では東晋の武人から身を起こした劉裕(りゅうゆう - 南朝宋の初代皇帝・諡号:武帝)によって宋王朝が成立し、華北では439年に鮮卑(せんぴ - 五胡のひとつ)の拓跋(たくばつ)氏が北魏(ほくぎ)を建てて北方を統一しました。
中国の北「北魏」と南「宋(劉宋)」の2大王朝が支配した時代は南北朝時代と呼ばれています。南朝はその後、南斉、梁、陳と変わってゆきますが、その文化は漢民族による伝統を受け継ぐものでした。
南朝の仏教文化
仏教をあつく保護した梁の武帝の時代、都の建康(現在の南京)では、3千以上の寺院と8万人以上の僧尼がいたと伝えられています。また、宋代の瓦官寺(がかんじ)にはスリランカから贈られた白玉製の仏像が安置されていたと伝えられ、南朝には国際色豊かな最先端の仏教文化が花開いたことが伺えます。
南朝にも多くの仏像が伝えられたと言われていますが、現存するものはごくわずかです。
四川省の万物寺址(ばんぶつじし)では、1950年代までに数十体の仏像が出土しています。
↓ 南斉の永明元年(483)銘の仏座像は、南朝時代の貴重な仏像です。
この像は着衣に厚みがあり、胸前を開いて結び紐を長く垂らしているのが特徴的です。このような着衣形式を紳体式(しんたいしき)といい、当時の漢人貴族の服装がモチーフであると考えられています。
前面の裳(も - 十二単を構成する着物の一つ)が台座にかかっており、裾に装飾が施されています。これを裳懸座(もかけざ)と呼びます。このような形式は龍門石窟などの北朝仏にも見られますが、南北が影響しあったかどうかについては定かではありません。
漢民族の正統を受け継いだ南朝の文化水準は北朝よりも高く、仏教文化の流れが南朝から北朝へ向かったと推測されながらも、中国の仏像様式が多様であるにもかかわらず、南朝の仏像の現存例は少なく、この時期の仏像の発展や変化、起源は決着がつかず、今なお議論されています。
これらの影響については法隆寺や金堂釈迦三尊像(飛鳥時代)など、日本の止利(※1)式仏像(とりしきぶつぞう)を考える上でも重要な意味を持ちます。
※1 止利
止利仏師(とりぶっし )(鳥仏師とも)
飛鳥時代の仏師で鞍作止利(鳥)といい、北魏様式を採り入れてこの代の彫刻界を指導した人物。法隆寺金堂釈迦三尊や飛鳥寺(元興寺)丈六金銅釈迦像が有名。
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