明帝霊夢説(めいていれいむせつ)
中国の仏教の初伝に、古くから伝わる「明帝霊夢説(めいていれいむせつ)」と呼ばれる説話があります。
「後漢書(ごかんじょ)」西域伝(せいいきでん)によると、後漢の明帝(在位57~75年)はある夜、全身から光を放つ「金人」が飛来して殿庭に下り立つ夢を見ました。翌朝、博学の家臣・傅毅(ふき)に、それが「仏」というものであると教えられました。明帝はさっそく蔡愔(さいいん)、秦景(しんけい)らをインドに派遣しました。
仏法を求める旅に出た蔡愔(さいいん)、秦景(しんけい)らは、かの地でふたりのインド僧(※1)に出会い、彼らと共に経典や仏像を白い馬に乗せ、はるばる洛陽の都に帰還しました。これを記念して建てられたのが、「白馬寺」であると言われています。
※1 迦葉摩騰(かしょうまとう)・竺法蘭(じくほうらん)
白馬寺では漢訳仏典の第一号とされる「四十二章経(しじゅうにしょうきょう)」が翻訳されたと言われていましたが、今日では後世の経典の抜粋であるとみなされ、明帝の「霊夢譚」自体も伝説であるとされています。
中国への仏教伝来の時期
「三国志」に引用される「魏略」西戎(※2)伝によると、紀元前2年に博士弟子の景盧(けいろ)が大月氏王の使者、伊存から経典を口授されたとされています。こうした歴史書などからも、仏教は明帝の時期より古い時代に中国へ伝えられたと考えられています。
※2 魏略(ぎりゃく) 中国三国時代の魏を中心に書かれた歴史書
西戎(せいじゅう) 中国西部の遊牧民族(たびたび中国の歴代王朝に侵入して略奪を行った)
中国の仏像制作のはじまり
中国で最も早いとされる仏像制作は、3世紀の仏獣鏡(ぶつじゅうきょう)と呼ばれる銅鏡や魂瓶(こんびん)などの表面に施されたものであり、これらは仏教信仰に基づく像というよりは、お守り的な装飾意匠に過ぎないものと考えられました。
本格的な仏像制作は、当初、インドの仏像の模倣から始まったと推測されています。3~4世紀頃につくられたとされる藤井斉成会有鄰館(京都)の菩薩像は、肩に長い髪を垂らし、口元には髭、胸には二匹の獣が垂れ下がる胸飾(双獣胸飾)が表現され、両足にはサンダルを履いています。この特徴はガンダーラ仏に見られます。
サンフランシスコ・アジア美術館の仏坐像は、有鄰館の菩薩像とほぼ同じ時期に制作されたと考えられていますが、その表情は平明で、胸から腹にU字状に垂れ下がった衣文には、一種の形式化がみられます。有鄰館の菩薩像とは違う作風であり、この時代の仏像が少しずつ中国の文化に影響されていく過程を示していると言えます。
↓ 藤井斉成会有鄰館(京都)の菩薩像
↓ サンフランシスコ・アジア美術館の仏坐像
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