新羅仏像彫刻・珠玉の如来坐像vol.15

韓国統一王朝の誕生

660年、4世紀以来、三国の対立状態にあった朝鮮半島に変化が起こりました。
武烈王(むよるわん ※1)治世下の新羅が、朝鮮半島を自国の勢力下に取り込みたい唐と手を結び百済を滅ぼしました。

新羅・唐の連合軍はその3年後にも百済の再興を掲げて進攻した倭(わ - 日本)の水軍を錦江河口で撃破しました(白村江の戦い ※2)。さらに5年後、新羅・唐の連合軍は高句麗をも滅ぼし、676年に新羅は朝鮮半島から唐を駆逐して、名実ともに朝鮮半島を統一しました。

次に新羅が高麗に代わるまでの約260年間は「統一新羅時代」と呼ばれています。

統一新羅の時代は、中国をまねて律令体制の整備の期間であり、漢族貴族文化の全盛期でもありました。王都・慶州(きょんじゅ)は一大文化都市としても繁栄し、唐撃退を祈念した四天王寺(さちょんわんさ 679年)、倭の進攻にそなえた感恩寺(かむんさ 682年)の他、多くの仏教寺院が建立されました。
元暁(うぉんにょ)・義湘(ういさん)らの名だたる僧が現れたのもこの時代です。


※1)武烈王(むよるわん)
新羅の第29代王。在位: 654年~661年

※2)白村江の戦い(はくそんこうのたたかい)
663年(天智2年)に朝鮮半島の白村江(現・錦江河口付近)で行われた、日本・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争のこと



朝鮮仏教美術の最高傑作・慶州石窟庵の諸像

統一新羅では、花崗岩(かこうがん)を活かした石塔などに独自の美を生み出した美術品が生まれましたが、それらは一方で、盛唐の美術様式を強く反映したものでもありました。仏像は、主に石仏が作成され、多くの名品が生み出されましたが、特に「朝鮮仏教美術の最高傑作」と呼ばれるのが「慶州・石窟庵の諸像」です。

石窟庵は慶州市の東南約12キロ、吐含山(とはむさん)の東中腹にあります。自然の巨石を背にして、花崗岩の石材を組み上げ、これを封土(ふうど ※3)で覆った人工石窟で、内部には前室・間道・主室があります。

石窟庵は751年に現世の父母のために慶州・仏国寺を拡充した宰相(さいしょう)・金大城(きむでそん =金大正(きむでじょん))が、ほぼ同時期に、前世父母のために建立したものです。正式には石仏寺(そくぶるさ)という。

ドーム状の主室中央には、本尊の「如来座像(にょらいざぞう)」が鎮座し、周囲を取り巻くように梵天(ぼんてん)・帝釈天(たいしゃくてん)・普賢(ふげん)・文殊(もんじゅ)・十一面観音(じゅういちめんかんのん)・十大弟子(じゅうだいでし)の各像を浮彫した石版がはめこまれています。

上部には10個の仏龕(ぶつがん ※4)を設けて文殊(もんじゅ)・維摩(ゆいま)などの丸彫像を安置し、間道には四天王(してんのう)、前室には八部衆(はちぶしゅう)・金剛力士(こんごうりきし)の浮彫石板をそれぞれはめこんでいます。

本尊の丸みを帯びた容貌(ようぼう)、肉付きの良い堂々とした体軀、薄手の衲衣(のうえ ※5)を通して肉身が透けて見えている部分などに、盛唐彫刻の強い影響が見て取れます。

朝鮮の仏像は、以降も多くの作品がつくられましたが、急速に芸術性を失いました。続く高麗や朝鮮王朝時代には仏像よりも、仏画や陶磁器に美術品としての高評価が集まるようになりました。



※3)封土(ふうど)
古墳をおおう盛り土

※4)仏龕(ぶつがん)
仏像や経文を安置するために壁面や塔内に設けられた小室、あるいは屋内に安置するための容器。 石窟寺院などで壁面をうがちそこに仏像を安置したものや、バーミヤン石窟のように仏像そのものが崖壁から削り出されたものなど

※5)衲衣(のうえ)
仏教の出家修行者が着用する衣服のこと



↓如来坐像 統一新羅751年頃


仏像美術

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